青春を生きたマチ 吉川団十郎
第4話 さすらいのオダズモッコ(お調子もの)
15歳の時だ。若者の世界にエレキギター旋風が巻き起こる。既にオートバイの修理工として働いていた俺はどうしてもエレキギターが欲しくなり、17歳の時に緑屋デパートから1万8千円のエレキギターを10ケ月払いの月賦で買う。 買ったはいいが弾き方を教えてくれる人が近所には一人もいなかった。
この時代はまだ、1番安い3千円のクラシックギターですら持っている家なんて滅多に見たことが無かったし、ピアノだってよっぽどの金持ちの家にしか無かっただろう。だからこの我々、団塊世代までの皆さんは悲しいくらいに音感が悪かったと思う。 そんな訳でギターの弾き方は仕方なく本を読みながらの独学となる。
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たぶん18歳頃だったと思うのだが、テレビで「ザ・ベンチャーズ来日記念コンサート」が放送される事になった。すると運悪くその裏番組はアメリカの戦争映画『コンバット』だった。俺の6歳上の兄貴は自衛隊帰だったもので戦争映画や西部劇が大好きなのだ。
さて、放送直前の事。その兄貴に対し、俺は「絶対にベンチャーズ観るんだ!」と言い張る。すると兄貴は「コンバットを観るんだ!」と言い張る。 その内、とうとう放送時間がやって来たではないか。
俺がチャンネルをベンチャーズへ「ガチャ!」すると兄貴はコンバットへチャンネルを「ガチャ!」そして「ガチャ!」「ガチャ!」「ガチャ!」「ガチャ!」と交互に繰り返している内、男どおし、ついに取っ組み合いの喧嘩になってしまった。ゴロンゴロン・ゴロンゴロン・・・・
母ちゃんが止めに入って来た。頭にきた俺は「こったらウズ、デデイグワ!」(こんな家、出て行く!)と啖呵を切ってカバンに荷物を詰めた。その荷物と言うのがなんと50枚くらい持っていたレコードなのだ。そしてエレキギターを肩にかけ、カバンを手に持って家を出た。
「こんな家、二度と戻るもんか」
外は真っ暗だ。その夜は4号線バイパスの増田川の橋の下にもぐって寝た。この橋の下は俺の秘密基地だったのだ。2年くらい前に完成したばかりのバイパスの橋。そこへ誰かがワラを運んで来て、橋の下の付け根に敷いていたので横になることができた。
でも深夜になるととても寒い。だから皆さんにはあまりお勧めはできない。ましてや泊まるのは無理です。「よゐこは真似しないでね」
さてこの時代、歌手になるには「東京へ行き、有名なバンドのバンドボーイ(付き人)になるのが近道」と言われていた。そこで俺は「家出したついでだ。このまま東京へ行ってプロのミュージシャンを目指そう」と決心をする。
次の日、夜の8時頃、名取駅にいた。それも外のトイレ周辺に隠れるようにしていた。あと1時間ちょっとで上野駅行きの鈍行列車がやってくる。それに乗るんだ。
そこへ10歳上の兄貴が現れ、いともたやすく掴まれてしまう。
「昇、ほら母ちゃんが泣いでっから、家に帰るべ」と言う。こんな所でもめていたんでは多くの人にみっともないところを見られてしまう。それにこの惇(あつし)兄貴は閖上中学校の先生で柔道の顧問もやっているので逃げおおせる訳がない。それと俺の自慢の兄貴でもあった。そこで仕方なく家に帰ることにした。
でも、東京行きを諦めたわけではない。「どうすれば21時30分の上野行きの汽車に乗れるか?」と、そればかりを考えていた。
家に着くなり、すぐに兄貴にこう言った。
「友達の家さ預けている荷物、取りに行って来るがら・・・」
そんな出まかせを言い、兄貴のすきを見て家を出た瞬間、駅まで歩いて15分の道を猛ダッシュ!
「まだ時間は間に合う」
駅に着くとすぐに切符を買う。上野駅まで980円。そして見事汽車に飛び乗ったのである。席に着くと安心したかの如く、なぜかその当時流行っていた歌、井沢八郎の『ああ上野駅』を口ずさんでいた。