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COLUMN

連載 吉川団十郎 青春を生きたマチ

 青春を生きたマチ 吉川団十郎 
 第2話 プロへの階段

 私がミュージシャンとしてアマチュアだった頃、宮城県は音楽業界からこう囁かれていた。「フォーク・ロックの不毛の地」 24歳(1972年)の時、名取の音楽サークル『ABF(アマチュアバンドファミリー)』の友人が私に言う。
「今度、俺、ヤマハ主催の第5回ポプコン東北大会(作詞作曲コンクール)に出場するんだげんと、チケット買って~!」
 そうして私は仙台で行われたポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)へ友人の応援の為に出かけた。

 東北6県から選び抜かれたアマチュアのミュージシャン達がオリジナルソングを競い合った。そして最後に審査発表がある。その発表を聞いて私は愕然とする。なんとグランプリを獲得したのは青森県代表だった。岩手県からはNSP(ニュー・サディスティック・ピンク)が出場していて入賞した。
 それまでの私は「東北で1番、音楽レベルが高い県は宮城県だ!」とばかり勝手に思っていたからショックだった。と言うのには、こういう理由があった。
 ヤマハでは昔から作詞作曲コンクールをやっていたわけではない。スタートはライトミュージック・コンテストと言って『コピー』のコンテストだった。つまり日本にエレキギター・ブームが起き、若者達がギターを弾き始める。当然、その若者達は最初から作曲をやれる訳がない。ギター覚えたての初心者はコピーをするだけで精一杯なのだから・・・。そんな訳でヤマハはコピーのコンテストから始まったのだ。
 そのコピーコンテストの東北大会の結果は? と言うと、毎回なんと言っても宮城県のバンドが断然強かったのである。宮城県の独壇場と言っても過言じゃない。そういった輝かしい時代の『ロック部門』に私は毎回エントリーしていた。しかし私の場合は情けない事にいつも宮城県大会で惨敗していた。そんな現実に、自分の不器用さを悟った事もあって、バンドを解散する。
 やがて時代は流れ、コピーの時代からオリジナルを競う時代となった。その結果、なぜか宮城県のミュージシャンは他県に勝てなくなっていた。つまりこういう事だろう。「宮城県はコピーには強いがオリジナルには弱い」

 第5回ポプコン東北大会で宮城県のミュージシャンがグランプリを獲れなかった現実を目の当たりにして、私は悔しかった。そこで私はサークル仲間に宣言した。「必ずグランプリを獲ってみせる」と。 生意気だが私には私なりの自信があったから言ったのだ。 
 コピーのコンテストの時代、私はいつも宮城県大会で負けていた。その時にこう思った。「俺にはコピーの才能はない。だったらコピーは早々と諦め、まだ誰もやっていない作曲をやろう」 そうして誰よりも早く作曲を始め、既に何曲もオリジナル曲を書いていた。 
 私は仲間に「グランプリを必ず獲る」と宣言したと同時に、コンテスト応募用にと2曲を作曲した。『キューピーちゃん』と『ああ宮城県』と言う歌である。その曲を第7回ポプコン宮城県大会に応募すると、『キューピーちゃん』がエントリーされた。されたのは良いが、私にはバンドが無かったのでABFの中から実力のあるメンバーをにわかに揃え『吉川団十郎一座』として出場した。するとなんと、グランプリを獲ったのだから感激! そして東北大会でも宣言通りグランプリを獲る。そして全国大会への出場権を獲得した。

1974年5月5日。第7回ヤマハポピュラーソングコンテスト・つま恋本選会(全国大会)が催された。出場者の顔ぶれが凄い。松崎しげる・葛城ユキ・庄野真代・小坂恭子・谷山浩子・ピーマン等々。

【審査結果発表】
吉川団十郎一座 『キューピーちゃん』 《入賞》 *《川上賞》 《キャニオン・レコード賞》の3賞を受賞! 

 そして『キューピーちゃん』がレコードになりキャニオン・レコードから発売された。つまりプロとしてレコードデビューしたのである。しかしヒットしたのはテープ審査で落ちた『ああ宮城県』の方だった。

*≪川上賞≫とは、ヤマハ楽器の『川上源一社長』により選ばれた楽曲に与えられる賞です。川上社長はヤマハ楽器を『世界のヤマハ』に押し上げた功労者でもあり、ヤマハ発動機(オートバイ)を創業した方でもあります。

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