30年くらい前の事。気仙沼へ文化講演に呼ばれて行った。控室に付くと、そこへ地元の某ミニコミ誌の編集長と言う方が突然「取材をさせてほしい」と言って来た。
私は了解をして質問に答える。
後日、刷り上がったばかりの本が送られてきた。そしてその本を読んだ私は愕然とするのであった。
それは、私の悪口ともいえる内容となって書かれていたからだ。
その彼は私に少しは容赦をしてくれたつもりなのだろう。世間に知られている名前の「団十郎」ではなく「D氏は・・・」と気遣っている。しかし誰が読んだって講演に来たD氏は「団十郎」だけである。
ところで掲載されていた記事の内容はこうである。
「先日、講演に来たD氏は『統一美』と言う言葉を使った。『美』と言うものは好みの問題であって、それを1つに統一するのは間違った考えである・・・・」(その本は今、我が家の何処かに大事にしまってあるのだが、何処にしまったかが分からないので探しているところ)
「編集長よ、貴方はなんと情けない。それでも編集長なの?」と言い返したい気持ちだ。しかしこれが結構、世間では「編集長が正しい!」と思っている人が多いかもしれないよ。意外と美の論争になると、分からない人に限って終いには尻をまくって「好みの問題じゃないの」ってね。
ところがどっこい、美と言うもの、統一されてなきゃこの世は大変な事になりますよ。例えば分かりやすく言えば『美化運動』って統一美のことじゃないですか。
『誰が見ても美しい環境』『誰が触れても美しい心』『誰が聞いても美しい言葉』『誰が見ても美しい文字』 『誰が見ても美しい部屋』等々。これこそが統一美だと私は思う。
ここに1つの山がある。その山には沢山の登り口がある。茶道と言う道、華道と言う道、陶芸と言う道、彫刻と言う道、絵画、書道、音楽等々。つまり人はどの道から登っても良い。登りきった頂上には『美』と言う1つの言葉が待っている。これが私の言う『統一美』なのだ。
●『美しいもの』と『醜いもの』 見分けがついても一生、
見分けがつかなくても一生、しかし同じ一生ではない
≪もう1つの山≫
ただし、私は『美が最高』とは言っていない。実は、美は頂上ではない。『基礎』『土台』なのだ。だから頂上を下りなければならない。下りた先には次の山が待っている。そして又、登り出す。今度の山のテッペンには何と言う言葉が待っているのか? それは『芸』である。
例えば、印刷文字は美しい、誰が見ても美しい。しかし、美しいけど味気ない。表情が無い。だから今度はそれぞれの個性で味付けをする。
美+個性=芸
ここまで来れば、あとはもうあなたの好みの問題である。
誰の個性が好きか?
「ゴッホが良い」とか、「セザンヌが良い」とか、「宗像志功が良い」とか。
編集長よ、あれからもう30年が経った。あなたは今でも『統一美』を否定しているのだろうか?